今日も快晴です。今回はミニベロロード アイゼル M300で、JR宇野駅から「玉野市電」跡地に整備された自歩道を走り、渋川海岸を経由し「王子マリンロード430」で児島、そこから旧下津井電鉄跡地に整備された「風の道」で下津井駅跡まで走ってみることにしました。少し長くなるので「玉野市電跡地をポタリング」として宇野~渋川までと、「風の道ポタリング」として渋川~下津井までの前後編の二部に分けました。今回はその前編で、宇野~渋川間を走ります。この玉野市電跡地は以前電車で宇野駅まで行って徒歩で歩いたこともあるコースです。
JR宇野みなと線の終着駅、宇野駅です。しばらく見ないうちに駅舎がアート化されていました。自宅から宇野までは十数kmですが、途中国道30号線の實峠を越えなければならないのが少し億劫《おっくう》だったこともあり、今年から宇野に転勤になった妻、これ幸いと出勤前に妻のアクアに自転車を乗せ宇野駅まで送ってもらいました。
かつて宇野駅は、宇高連絡船への乗換え駅で、本州側からの四国への玄関口として賑わった駅です。当時の宇野線(現、宇野みなと線)には、東京や大阪からの特急列車や急行列車、岡山~宇野間は快速列車等がひっきりなしに発着していました。
ちなみに、宇野~高松間には宇高連絡船(乗客と貨物列車を乗船)と、1972年(昭和47年)からはホバークラフトも就航していました。連絡船で1時間、ホバークラフトで25分位ではなかったかと思います。しかし、1988年(昭和63年)瀬戸大橋の開通した年に連絡船と共に廃止され、幹線であった宇野線は一ローカル線になってしまいました。
駅舎西側には自転車をモチーフにしたアートがありました。手前の自転車はアートではなく、 私のアイゼル M300です。JR宇野駅も規模が縮小され現在の場所に移設されたため、ハッキリとした場所は分かりませんが、以前産業振興ビルで見た宇野駅のジオラマの記憶では、この左奥付近が当時の玉野市電の宇野駅があった場所ではないかと思います。宇野駅を発車した列車は奥の跨線橋を潜り、その後左に大きくカーブして行きます。
玉野市電の正式名称は玉野市営電気鉄道で、開業時は三井造船(現、三井E&S造船、玉野市玉)の引込線跡を利用して1953年(昭和28年)に私鉄備南電気鉄道として宇野~玉間の運行を開始、その後1956年(昭和31年)に玉野市に移管され玉野市電として再スタートしました。市に移管後には玉駅~玉遊園地前駅間が延伸され、1972年(昭和47年)に廃線になるまで、JR宇野駅(玉野市宇野)から玉遊園地前(玉野市奥玉)までの約4.5kmを走っていた鉄道です。
ちなみに、電気鉄道と言いながら、開業当時こそ電車での運行でしたが、1964年(昭和39年)には気動車に切替えられ、廃線まで気動車が1両の単独運転で走っていたそうです。子ども心に、宇野駅で見た1両だけの列車の記憶が蘇ります。
トリプルメーターを“0”にしてスタートします。
宇野駅から宇野みなと線沿いに少し北上し跨線橋を潜ると、その先で道路が左に曲がっていて北進出来ません。道路端から北側を見るとフェンスに沿うように玉野市電跡地も左に緩やかにカーブしています。
西側に少し進むと北に向かう道路があったので北上すると玉野市電の跡地に出ました。跡地はやはり緩やかな左カーブを描きながら西方向に延びています。路線の跡地は現在は駐車場として使用されているようです。
旧県道22号線(倉敷玉野線)の広潟交差点です。歩道橋の階段の先辺りが「広潟駅」だった場所です。
「広潟駅跡」付近です。左奥に宇野中学校が見えて、自歩道はここがスタート地点のようです。路線跡は変わらす左に緩やかにカーブしています。
広潟駅跡から200m程で「玉野高校前駅跡」付近に到着しました。右側に距離標があり200/1300となっています。
少し進むと、宇野駅側からの最初のトンネルの天狗山トンネルです。玉野市営電鉄に3つあるトンネルの中で一番長い物のようです。
トンネル内は掘削した状態のまま、コンクリートを吹き付けているようです。列車が走っていた当時から、こんな感じだったのでしょうか?
天狗山トンネル南抗口です。
天狗山トンネルを出てすぐの場所が「西小浦駅跡」のようです。ベンチが設置されていて休憩出来るようになっています。
沿道にはツツジが満開です。
国道30号線の交差点です。その前方に船の帆をモチーフにした市民病院が見えています。
国道30号線を横断して少し進んだ場所が「玉野市役所前駅跡」のようです。当時は現在の市民病院の場所に市役所があったようです。
ここから距離表示が変わるようです。
「玉野市役所前駅」から交差点と川を渡り100m程先のこの付近が「塩古浜信号所跡」のようです。全線単線の玉野市電で唯一行違いの出来る場所でした。
2つ目の中山トンネルが見えてきました。右奥には宇野小学校が見えています。
中山トンネルの内壁は綺麗に整備されていました。
中山トンネル南抗口です。
この付近が「藤井海岸駅跡」のようです。左先へ伸びる道路が海岸に向かっているようです。沿道の自宅で庭の草花を手入れされていた年配の方に話を伺うと、今でこそ海岸は離れてしまいましたが、昔はこの先の交差点辺りが海岸線だったとご教示いただきました。見てみると、交差点はすぐそこで、駅は海岸のすぐ傍にあったようです。駅名にも頷けます。
さらに駅はどの辺りにあったのですかと伺うと、右側の三階建ての建物付近にホームがあり、この駅からよく市電を利用されていたとのことでした。ありがとうございました。お礼を言って先に進みます。
しばらく走ると、前方に造船所のクレーンが見えてきました。
昔の地図によると、交差点の先が「玉野保健所前駅跡」ではないかと思いますが……
通行中の年配の方に伺うと、駅のホームの場所はハッキリとは覚えていないそうですが、交差点の少し手前(宇野方面)に、よく話題になるアパートが有ると案内してくださいました。
前方に先程の交差点が見えます。右側のアパートがその建物だそうです。
何と、この途切れた階段がホームに繋がっていたと聞かれたことがあるそうです。自宅の階段を降りると、そこはホームなんて滅茶苦茶便利ですね‼️
以前は階段が自歩道まで出ていたそうですが、現在はアパートの側面で切断されているようです。お礼を言ってその方とは別れました。色々情報ありがとうございました。
もう少し詳しい話を伺おうと、当時の事をご存知でありそうな年配の方を探しましたが、あいにく出逢うことが出来ず、真相はまた次回と言うので今回は諦めて先へ進みます。
「玉野保健所前駅跡」を過ぎると、すぐに3番目の「大仙山トンネル」です。
大仙山トンネル南抗口です。以前歩いた際には、このトンネルは通行禁止になっていましたが、綺麗に整備されて通行可能になっていました。
「大仙山トンネル」を抜けると道の先に造船所が見えました。左側の大聖寺に上がるスロープの外壁の下付近が「大聖寺前駅跡」のようですが、この場所は横断出来そうにないので、少し先の交差点を渡ります。
「大聖寺前駅跡」です。寺の外壁が左にカーブしていますがホームはこの左隣にあったようです。中央の電柱の先が上の写真を撮影した場所です。
白砂川を渡り、造船所の横を走ります。
この付近が「三井造船前所前駅跡」(開業当時は「玉駅」)があった場所ではないかと思います。昔の地図には白砂川に駅に渡る橋が架かっていたようですが、現在は何も無いため詳細な場所は分かりません。フェンスの左側は現在では造船所の敷地になっているようですが、当時は駅の構内だったのではないかと思います。
「三井造船所前駅跡」から白砂川を渡り道路を横断するとすぐに「玉駅跡」です。右側のビルとバス停との間が路線跡で駅舎はバス停の後ろの建物付近にあったようで、駅舎跡は現在イベント広場になっているようです。この玉駅は宇野駅と共に有人駅だったようで、商店街に隣接していて賑わった駅だったのではないでしょうか。
この駅は1955年(昭和30年)に「三井造船所前駅」(当時は「玉駅」)から200m程延伸された時に新たな終点駅として誕生しました。延伸工事中には「玉橋駅」と呼ばれていたそうですが、延伸工事が完了し開業時に「玉駅」は「三井造船所前駅」に改名され、それと同時に「玉橋駅」は「玉駅」になったそうです。沿道で色々地元の方と話をしていると、全ての方がこの駅を「玉橋」と言われます。何人かに伺いましたが「昔から『玉橋』でした。」とのお答えでした。それ以上は伺いませんでしたが、延伸工事時に呼ばれていた「玉橋駅」という名前の印象が、かなり強かったのかも知れません。
ここでちょっとタバコ休憩です。玉野市電は右側の駐車場管理事務所の先を北へ向かって行きます。休憩後、私も白砂川の東側を北に走ります。
現在市営駐車場として使用されている場所が、かつて玉野市電が走っていた場所です。
左前方に玉野市民会館が見えてきました。前方の交差点は国道430号線で、その国道に架かる歩道橋の先が「玉比咩《たまひめ》神社前駅跡」のようです。
玉野市民会館と玉比咩神社です。
さらに進みます。昔の地図によるとこの付近が「玉小学校前駅跡」ではないかと思い、数人の方に伺いましたが、よく分からないとのことでした。
公園(玉緑地)に高齢者施設の方が来られていて、スタッフの方が伺ってくださいましたが、結局確定することが出来ませんでした。しかしスタッフのお一人が、友人のお父さんが詳しいと紹介いただいたので、伺って話を聞かせていただきました。
右側の建材店の前付近から電話ボックスのある交差点にホームがあったそうです。お父さん、ありがとうございました‼️ これでスッキリです。この後、終着駅の「玉遊園地前駅」を目指します。
右手に公園が見えてきました。昔の地図によると、このあたりが終点「玉遊園地前駅跡」だと思います。右前方に見える公園が「玉遊園地」ではないかと思います。現在は「北山中央児童遊園地」という名称に変わっていますが、やはり「遊園地」でした。ちなみに、この玉遊園地は一般的なイメージの遊園地では無く普通の児童公園です。昔岡山では公園の事を遊園地と呼んでいたように思います。
公園に居られた方に伺うと、駅があったのは交差点の南(玉駅)側だとご教示いただき、あっさりとホームが有った場所を特定することが出来ました。ありがとうございました!
玉遊園地の南角、この付近に「玉遊園地前」のホームがあったそうです。
終点付近で アイゼル M300の記念撮影です。
「玉遊園地前駅跡」の北方向です。右奥に延びる道路の先には玉中学校が見え、左奥に伸びる道路が、県道62号線(玉野福田線)です。私は右方向に進みます。
100m程進み左に曲がると、奥玉小学校跡地です。旧校門が残されていて、敷地内には現在「玉野市総合福祉センター すこやかセンター」が建っています。
その敷地の一角に、760号電車があります。
前面には「玉野市電103」のヘッドマークが取付けられてます。
側面には「高松琴平電鉄」のエンブレム。
「17-12 仏生山工場」とも記されています。
さてその関係は……
このような760号(モハ103号)の呟きがありました。760号は実はモハ103号だったそうです。1953年(昭和28年)の備南電気鉄道の開業から、1964年(昭和39年)の非電化に伴い気動車にその席を譲るまで、この玉野市電の路線を走っていた電車です。琴電に移籍後703号に改名され2006年(平成18年)まで活躍し、その後ふるさと玉野の「玉遊園地前」駅跡近くのこの場所に里帰りしたようです。高松に居た私は当時仏生山から街中へ出る際に頻繁に琴電を利用していたので、もしかすればこの車両にも何度か乗っていたのかも知れません。
詳細については、玉野市電保存会が詳しく纏まられたHPがあります。下記アイコンからリンクしていますので、是非ご参照いただきたいと思います。
最後に玉野市電103号と記念撮影し、渋川海岸を目指します。玉迄戻り和田から日比を抜けるか、山越えして玉原から渋川に抜けるか少し考えて、北へ向かってしまいました。
山越えコースを選択してしまったのです。
やはり上り坂はキツイ! ミニベロは軽いと言いますが、以前乗っていたクロスバイクの方がさらに軽かったように思います。
何とか急な坂を登り、ここまで辿り着きました。この公園で少し休憩です。
休憩を終え、出発します。公園からは緩やかな上り坂が続き、登った後はこの交差点まで下り坂、左に行けば和田方面にさらに下ってしまいます。この交差点から私は右方向に進むつもりです。下った分以上に、この先また上り坂が待っているかも知れません。
やはり…… キツい‼️
写真撮影がてら少し休憩しました。
この先さらに坂道が続くように見えますが、私はこの交差点を左折します。ここからは下り坂かと思いきや……
また登り坂が待っていました。
今回はさほど距離が無かったので登りきる事ができました。ここから下り坂です。
時速は48km/h迄上がっています。さすがにこれ以上は怖いと思いブレーキングです。前回程ではありませんが、やはりミニベロは安定感が無いように感じます。ただハンドルや自転車自体が揺らいだりすることは無いので、ただ慣れの問題なのかも知れませんが……
日比製錬所の西側で国道430号線に合流しました。
しばらく進むと「⇦渋川海水浴場」の案内板があったので左折しました。
藤の花が満開でした。
藤棚の下でアイゼルM300の記念撮影です。
渋川海洋博物館です。昔訪れた時には、宇高航路で活躍していたホバークラフトが展示されていたように思いますが、私の勘違いなのでしょうか……
渋川海岸に出てみました。海岸では海事研修で子どもたちがカッターを漕いでいます。その先には瀬戸大橋の岩黒島橋や与島橋、与島を挟んで南北備讃瀬戸大橋が見えていました。
海岸で記念撮影です。
久しぶりに渋川海岸を訪れました。私が幼少の頃、両親に連れられ海水浴に来たことを思い出しました。当時は道路事情も良くなかったことも有ったとは思いますが、とても遠かったよう感じたことが思い出されます。
今回は玉野市電跡地を走り、奥玉から玉原経由で山を越えて無事渋川までたどり着くことが出来ました。お疲れ様でした。と言いたいところですが、今回はまだ半分しか走っていません。これから児島を経由し本州側のもう一つの四国への海の玄関口、下津井を目指します。
この続きは後半の「王子マリンロード430と風の道」で‼️