会津喜多方を楽しむドライブ旅 その2

会津喜多方を楽しむ旅その1の続編です。なかなか写真の整理がつかず、遅くなってしまいましたが、やっとその2が纏まりました。

3日の朝目覚め天気予報を見ていると、今日と明日共天候はいいようなので一安心です。今日は午前中に鶴ヶ城とその周辺を散策し、昼食は渋川問屋で会津の郷土料理をいただき、午後は飯盛山にある白虎隊記念公園や会津武家屋敷に立寄った後、今夜宿泊する東山温泉の宿に向かおうと思っています。

 

※ 会津喜多方を楽しむドライブ旅 その1から見る

 

朝7時前に目覚め、外を見てみると天気は快晴、部屋の窓からは磐梯山が綺麗に見えています。天気もいいので周辺を朝の散歩がてらブラブラしてみることにしました。

 

今回宿泊した会津若松ワシントンホテル会津若松市白虎町201)です。会津若松駅迄歩いてみようと思います。

 

ホテルの前の道路は白虎通りというようです。その道路を歩き会津若松駅会津若松市駅前町1-1)までやって来ました。駅前の地下歩道の出入口は櫓を模したものでした。

 

ホテルの前から白虎通りを歩くこと5分余り、会津若松駅に到着です。駅前には赤べこや白虎隊士の像が見えています。

東京方面から会津若松に鉄道で至るには、東京駅や上野駅から東北新幹線郡山駅を経由し磐越西線で訪れるのが一般的ですが、多少時間は掛かるものの浅草駅や新宿駅から東武鉄道を利用し旧会津線会津若松駅まで来るコースもあるようで、この列車旅も楽しそうです。

 

白虎隊士の像です。白虎隊は会津藩士の武家男子の子息で構成されていて幼少組には年齢を偽り入隊した13歳の少年もいたようです。この像も少年のような顔つきをしていて、自刃という悲惨な最後を遂げた飯森山の方向を向いています。彼らのことを思うと何だか切なさのようなものを感じてしまいました。

 

駅の出入口脇に置かれている赤べこです。横のスイッチを押すと、しゃべったり歌ったりするようです。会津を代表する民芸品の一つで土産品としても有名な赤べこは赤色の体に黒い斑点模様があり、ゆらゆらと首が動くのが特徴のようで昔から厄除けや幸運を運んでくる牛《べこ》として親しまれているようです。

 

駅での所用を済ませホテルに向かいます。

 

C57型蒸気機関車の動輪も置かれていました。磐越西線にSLが運行されたことを記念し2000年12月に設置されたようです。

 

ホテル手前の交差点にはオブジェが設置されていました。

 

会津若松駅仕入れた今日の朝食、会津若松の郷土料理の一つわっぱ飯の駅弁です。

わっぱ飯(輪箱飯)は薄い木の板で丸く作られたわっぱという箱に入れられたご飯で、わっぱは昔は弁当箱としても利用されていたそうです。 このわっぱにご飯を入れて具材を載せ蒸しあげたものがわっぱ飯で会津地方の郷土料理の一つだそうです。二社が製造されているそうなのでその二つを食べ比べてみたいと思います。

 

一つ目は会津若松市内にある割烹料理の田季野が手掛ける会津若松市の元祖ともいえる輪箱飯(1,700円)で、2022年11月から駅弁用に販売を始められたそうです。

 

もう一つは郡山市にある福豆屋が手掛ける会津を紡ぐわっぱめし(1,200円)です。会津の伝統工芸である会津木綿の縞模様を意識されたような、とてもカラフルで素敵な掛け紙です。

 

田季野のわっぱ飯です。薄い木の板で作られたわっぱに詰められたものでした。

蓋を開けると鮭、カニ、きのこ、ぜんまい、玉子などが載っていて海と山の幸が所狭しと並んでいました。

 

福豆屋のわっぱ飯です。こちらの容器は発泡スチロール製ですが、蓋を開けるとシイタケやアスパラ、鶏そぼろやだし巻き玉子、きのこやぜんまい、 ニシンなどの天ぷらと会津ならではの食文化が感じられました。

どちらも個性的でとても美味しくいただくことが出来ました。値段の違いはわっぱの費用の違い? 会津の美味しいものを色々と詰め込んだわっぱ飯、郷土の味をしっかりと楽しませていただきました。

 

相変わらず磐梯山は綺麗に見えていました。8時15分過ぎ出発することにします。

 

フロントでチェックアウト、ロビーには赤べこが置かれていました。

8時30分過ぎにホテルを出発します。

 

ホテルからナビの案内で南下していると正面に鶴ヶ城が見えてきました。

 

ホテルから20分程、8時50分過ぎに鶴ヶ城公園東口観光有料駐車場(会津若松市城東町1-25)に到着しました。駐車場脇には鉄砲を片手に立つ勇ましい八重の像がありました。

 

鶴ヶ城に向かいます。

 

二の丸付近から高石垣を望みます。高石垣と堀、朱色の廊下橋とのコントラストが綺麗です。

 

裏門近くから石垣越しに望む天守……

 

天守前には赤べこがいました。首を振って出迎えてくれているようです。天守と茶室麟閣共通券520円を購入し、先ずは茶室麟閣へ向かいます。

 

本丸内にある対面所跡地です。現在は芝生広場となっていますが、スタッフ一押しの撮影ポイントだそうです。

 

千利休の養子少庵が建てたという茶室麟閣です。茶室の手前には立派ま寄付もありました。

 

荒城の月の歌碑です。

 

土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲の七五調の歌詞と西洋音楽のメロディが融合した楽曲です。歌詞のモデルとされたのはここ鶴ヶ城址や青葉城址だと云われ、曲は瀧廉太郎の故郷にある岡城址や富山城址をイメージしたと云われています。以前訪れた岡城址には歌碑と廉太郎の銅像が設置されていました。

 

鉄門《くろがねもん》から続く続櫓と天守です。

 

天守に入城します。

 

二層にある歴代の領主や領主に関する資料などが展示されている鶴ヶ城ヒストリーコリドーです。

 

三層まで上がってきました。幕末の混乱と 戊辰戦争を多角的な視点から追体験できるという幕末ラインウォールです。

 

漆、陶磁器、蝋などが会津藩を支えた主要産業だったようです。

白虎隊の自刃図や……

 

1868年(慶応4年、明治元年)の戊辰戦争で痛んだ天守、1874年(明治7年)に取り壊される前の貴重な写真です。

 

最上階の五層は展望台になっていました。北東方向には磐梯山や飯森山が望めます。

 

南方向には続櫓や表門の鉄門、その先には干飯櫓が望めました。

 

続櫓まで降りてきました。続櫓内は土産物の販売場所になっていて沢山の人でごった返しています。

 

続櫓から望む天守鶴ヶ城の特徴の一つ赤瓦が見事です。現在このような赤瓦葺きの天守を見ることが出来るのは鶴ヶ城だけだそうです。

鶴ヶ城も当初は黒瓦が葺かれていたようですが、雪国のため低温や積雪に耐えられるようにと、保科正之の命により鉄分を多く含んだ釉薬を用いた赤瓦が会津で開発され葺き替えられたそうです。

 

北側の椿坂から市道を歩き国道121号線に出てきました。

 

城の西側には日新館跡の碑(会津若松市米代1丁目2)がありました。

日新館は1803年(享和3年)に建てられた会津藩の最高学府で、上士以上の藩士の子弟は全て入学が義務付けられていたようです。約8千坪の敷地に武道場天文台、日本最古のプールといわれる水練水馬池などもあったようで、新島八重の実兄山本覚馬や白虎隊の少年たちを始め多くの優秀な人材を輩出した藩校だったようです。

 

日新館跡のほど近く、鶴ケ城から西に約500m程の場所にある山本覚馬新島八重生誕の地の碑(会津若松市米代2丁目1-23)にやってきました。

新島八重は、綾瀬はるか主演で2013年(平成25年)にNHK大河ドラマ、八重の桜の放映で一躍脚光を浴び、全国に今迄以上にその名が知られたのではないでしょうか?

 

1989年(平成元年)に地元の方の協力をいただき同志社が建立されたようです。碑には戊辰戦争の時に鶴ケ城に籠城して戦っていた八重が会津藩が降伏し開城する前夜に詠んだと云われる歌が刻まれていました。

 

碑からさらに西に50m程進むと、山本覚馬新島八重兄妹の生誕の地の説明板が設置されていました。この案内板の後方が敷地だったようで、敷地面積は約500坪(1,650m2)もあったようです。

 

先程の碑が設置されている場所とは少し違うようです。

この後、鶴ヶ城の観光案内所で周辺の見どころを伺った際勧められた西郷頼母邸跡に向かいます。

 

山本兄妹の生誕地から途中休憩を挟みながら歩くこと30分足らず、西郷頼母邸跡(会津若松市追手町5-3)に到着しました。西郷頼母は幕末の会津藩の家老ですが、田中土佐と共に会津藩松平容保京都守護職辞退を進言したことで容保から怒りを買い、家老職を解任されてしまいました。しかし戊辰戦争が起こると家老職に復帰、新政府軍が城下町に乱入した際は登城していたようですが、その留守宅では家族らは辞世の句を残して自決されたそうです。

この後駐車場に戻ります。

 

西郷頼母邸跡の前からは正面に鶴ヶ城天守が見えていました。

11時25分頃駐車場に戻り昼食に向かいます。昼食は13時に七日町にある渋川問屋に予約しているので少し早いですが七日町まで移動し、歴史的建造物が立ち並ぶ七日町のレトロな街並みを散策しながら時間まで待つことにします。

 

11時40分頃今日昼食を予約している渋川問屋(会津若松市七日町3-28)に到着しました。

渋川問屋の創業は1882年(明治15年)だそうで、140年以上もの歴史をもつ会津一の元海産物問屋だそうです。当時の姿を留める美しい格子のある風格ある立派な佇まいです。

 

かなり時間は早いのですが、ダメ元で昼食時間を早めることが出来るか店に入りスタッフの方に伺うと、いただくことが出来るそうです。

 

妻を呼び、店内に入ります。

 

案内されたのは囲炉裏脇のテーブルです。

この渋川問屋は主要街道が集まる七日町通りにあり、元々は北海道から運ばれたニシンや棒タラなどの海産物加工品を扱う会津一とも言われていた乾物問屋だったそうです。干物を扱うプロの味は渋川家の料理に代々受け継がれ、大正時代に建てられた母屋や 明治時代に建てられた蔵座敷でその会津の郷土料理を提供されるようになり、会津の郷土料理の代表的な食事処として多くの観光客などに利用されているようです。

 

メニュー表です。

今回は会津地方の郷土料理の祭り料理御膳の亀コース(3,600円)を予約した際にお願いしていました。

 

祭り料理御膳の亀コースは、女将のお勧めだという鶴コースに、会津牛カットステーキや北海道産の紅鮭の手まり寿司が付いたコースになります。

 

最初に食前酒のにごり酒が付くそうですが、私は運転があるので烏龍茶にしました。料理はニンジンや昆布の上にグリーンピースがあしらわれた松前漬けの先付けに始まり、長時間とろ火で煮込んだ身欠きニシンの昆布巻や棒タラ煮……

 

北海道の紅鮭の手まり寿司にこづゆ、会津牛には大根おろしとピーマンが添えられていて、柔らかく上質な肉質で脂も美味しく旨い!

こづゆは郷土料理の吸い物で、正月や冠婚葬祭の時にいただいているそうです。ホタテの干貝柱で取った出汁にきくらげ、里芋、ニンジン、糸こんにゃく、白玉麩などが入っていて具沢山です。薄めの出汁でしたがとても美味しくいただきました。 

ニシン、ピーマン、カボチャの天ぷらに季節の混ぜご飯、蕎麦粒がゆ、デザートはリンゴでした。

 

季節の混ぜご飯は新米の会津米で、しっかりと舞茸が入っていました。

どの料理もとても美味しく深い味わいで、会津漆器の器でいただく会津の郷土料理は最高でした。会津の味をしっかりと楽しませていただきました。ごちそうさまでした!

 

食事の後、七日町通りを少し散策することにしました。

七日町には歴史的建造物が立ち並びレトロな街並みを醸し出しています。今では観光地化され多くの観光客で賑わっていますが、この地域一帯の町並みは戊辰戦争の戦火により壊滅状態だったそうです。

 

街並みがとてもレトロで、一つひとつの建物は立派なので散策していて楽しくなります。

 

新選組の資料館かと思い入りかけましたが、妻から骨董屋さんじゃないの? と言われ入るのを止めました。

 

あかべこカフェの前には大きな赤べこが置かれていました。

13時過ぎ車に戻り、飯盛山にある白虎隊記念公園に向かいます。

 

13時15分頃飯盛山に到着しました。市営の無料駐車場は満車だったので、その手前にある白虎隊記念館の無料駐車場(会津若松市一箕町大字八幡牛ケ墓)に車を置き白虎隊記念公園に向かいます。

 

白虎隊記念公園の入口です。沢山の土産物店が並びその先に急勾配の長い階段が見えています。

 

その階段に並行して飯盛山動く坂道という有料のスロープコンベアがありました。このスロープコンベアは上り専用で料金が250円ですがベビーカーや車椅子などでは乗車できないため、戸ノ口堰洞穴やさざえ堂を経由する、坂道コースで往路復路共移動する必要があります。

 

飯盛山動く坂道の乗車口の左側に資料館白虎隊記念館(会津若松市一箕町大字八幡弁天下33)があります。

 

この資料館には白虎隊をはじめ戊辰戦争関係の史料などが展示されているそうなので必見です。

 

入口脇にも白虎の像……

 

入館します。入館料は400円でした。この資料館は1956年(昭和31年)に会津出身の弁護士早川喜代次によって創立された私立の史料館で、戊辰戦争における白虎隊をはじめとする会津藩の悲劇を後世に伝えたいという思いから私財を投じて作られたそうです。

館内は撮影が禁止なので写真はありませんが、白虎隊以外にも戊辰戦争関係の遺品や写真などの資料、会津藩の九代藩主松平容保はじめ新島八重会津藩関係者の史料、新撰組近藤勇、西軍総督岩倉具定や土井晩翠らの史料も展示されていました。

 

資料館から坂道コースで戸ノ口堰洞穴やさざえ堂を順番に見学していきます。

 

飯盛山嚴島神社が見えてきました。

 

嚴島神社の脇にある戸ノ口堰洞穴(会津若松市一箕町大字八幡滝沢160)です。猪苗代湖の水を会津地方に引くため掘られたそうで、1835年(天保6年)に完成した用水堰は全長は31kmにも及び、この堰洞穴は長さが約150mもあるようです。

 

猪苗代湖畔の戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士は鶴ヶ城を目指し、150mもある暗く冷たい水の流れる洞穴の中を進みこの場所まで辿り着いたようです。

 

戸ノ口堰洞穴からさざえ堂には坂道と階段コースがありますが、わずかな距離なので階段を上ります。

 

さざえ堂(会津若松市一箕町大字八幡弁天下1404)にやって来ました。二重構造の螺旋階段を持っているという少し不思議な建造物で、建築史上でも珍しい存在であることから、1995年(平成7年)には国重要文化財に指定されたそうです。

 

さざえ堂脇にある受付で拝観料400円を支払い参拝します。

 

入口にはこんな講釈がありました。さざえ堂の特色として、上りも下りも階段がない。一度通った所は二度通らない。土足のまま二~三分で見られます。と書かれていました。

会津さざえ堂は1796年(寛政8年)に建立された六角三層の仏堂で、正式名称を円通三匝堂といい、高さが16.5mもあるそうです。上りを⼀回転半、下りを⼀回転半と建物内を三回転することから三匝堂の名もあるそうです。

 

一見螺旋階段のようにも見えますが、床面に滑り止めの桟が取付けられたスロープです。

建立当時この地には正宗寺というお寺があり、さざえ堂はその住職の郁堂和尚が考案された建物だそうです。入口にはその郁堂和尚の木像が祀られていました。

 

そのスロープは上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造になっているため、沢山の参拝者がすれ違うこと無くお参りができるという世界にも珍しい建築様式が採用されています。

 

私が立っている床面の下側は往路の天井になります。仏堂内には下り側のスロープを⾒ることのできる場所が何ヶ所かあり、奥に見えているのが下り側のスロープです。

 

スロープに沿って厨子が設置されています。かつては高さ70cm程の西国三十三観音像が1体ずつ安置されていたそうで、この仏堂をお参りすることで三十三観音参りができるという大変合理的なものだったようです。

 

螺旋状のスロープを時計回りに上りきると、頂上には太鼓橋がありました。

 

その天井には千社札が沢山貼り付けられていて、まるで異世界に繋がる出入口を封印しているかのようです。千社札は天井だけでなく堂内部のあちこちにも沢山貼られていて、その一枚一枚に詰まった人々の想いが、さざえ堂の不思議な魅力を更に引き出しているかのようにも感じました。

 

頂上の太鼓橋を越えると下りの反時計回りのスロープに変わり、いつの間にか一階の入口裏側にある出口に出て来ていました。上る人と下る人が全く出会わない一方通行の構造を歩いたことは少し不思議な感じの貴重な体験です。 

1965年(昭和40年)に学術実測調査を行なわれた日本大学理工学部の小林教授は、郁堂和尚の感性をダ・ヴィンチに繋がる天才的な創造力と称えられたそうです。世界的にも非常に珍しいといわれている、さざえ堂とダ・ヴィンチと繋がっていたかも知れないと考えるとロマンを感じてしまいました。

 

白虎隊十九士の霊像を祀られているという宇賀神堂に参拝し、白虎隊十九士の墓にお参りに向かいます。

 

幕末の大きな時代の渦の中で散った白虎隊士が眠る場所です。戸ノ口原合戦から退却し辿り着いた飯盛山鶴ヶ城天守を覆い隠す程の炎や黒煙を目にし、城に戻り戦うべきか敵陣に斬り込むか隊士の間で激論が交わされた結果、彼らが選んだのは自刃でした。

新政府は朝敵とした会津藩士の遺体の埋葬を禁止し、幼い白虎隊士の遺体も例外ではなかったようです。見かねた近くの住民たちにより3ヶ月後に近くの妙国寺に密かに仮埋葬され、改装が許されたのは翌年の1869年(明治2年)、この場所に埋葬されたそうです。

 

線香の煙が漂うなか、私たちも手を合わせお参りをしました。壮絶な生涯を遂げた隊士たちの墓石は鶴ヶ城に向かい、今はここで安らかに眠られています。

隊士を思い手を合わせていると、太平洋戦争で散った特攻隊が重なりました。共に幼い子どもたちの尊い命…… 今もウクライナでは故郷や家族を守るために戦が続いているという現実、早期に平和な世界が訪れることを切に願うばかりです。

 

白虎隊士の墓の左側には1928年(昭和3年)に建立された会津藩殉難烈婦碑がありました。この碑は戊辰戦争で自刃や討死された武家の婦女子の霊を慰めるためのものだそうです。

 

広場の右側には白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市が1928年(昭和3年)にローマ市民の名をもって、この碑を寄贈されたようです。この碑の円柱部はベスビオス火山の噴火で埋没したボンベイから堀起こされた古代宮殿の柱を使用されているそうです。

 

白虎隊の自刃の地までやって来ました。ここには鶴ヶ城の方角を見ている隊士の石像がありました。

 

その隊士の見る先の鶴ヶ城は炎や黒煙に包まれ天守なども今にも焼け落ちるのではないかと思われる程の様子が目に入りました。しかし、実際には城は落ちては無く周辺の武家屋敷あどから昇っていた煙や炎だったと云われています。

実際に自刃の地から隊士たちが見たであろう方角を見てみると鶴ヶ城は遠く、それ故に起こってしまった悲劇だったようです。

 

幕末の頃までは城下町が広がっていた会津若松市街地です。中央には小さく鶴ヶ城天守が見えています。

駐車場に戻り15時10分頃、会津武家屋敷に向け出発しました。

 

白虎隊記念公園の駐車場から10分足らず、15時20分前に会津武家屋敷(会津若松市東山町大字石山院内1-1)に到着しました。

入館料は950円ですがJAFの割引で850円で入館することができました。

 

大きな四脚表門から一歩踏み入れると、家老屋敷や中畑陣屋など数々の重要文化財が立ち並んでいます。家老屋敷の表門に続く長屋脇を進みます。

 

移設された西郷頼母邸の入口の少し奥には姿三四郎こと西郷四郎銅像がありました。西郷四郎会津藩家老西郷頼母の養子で講道館の四天王の一人、富田常雄の小説姿三四郎のモデルで有名です。得意技は必殺技の山嵐、私も子どもの頃にはその姿三四郎に憧れを抱いたものでした。

 

家老屋敷西郷頼母邸の表門付近には綺麗に咲き誇る沢山の菊が置かれています。この屋敷は綿密な時代考証を基に、1975年(昭和50年)に家老屋敷として復元されたそうです。

 

表門から中に入ると式台玄関で出迎えてくださいます。

 

中の口玄関には毛槍などが展示されていました。

 

資料館には、望遠鏡や磁石、日時計などが展示されています。

 

威辰戦争中に最も多く使用された四斤山砲です。1859年(安政6年)にフランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲で最大射程距離は約2.6km程だそうです。四斤とは砲弾の重量が4kgだったことを意味しているようです。

 

西郷隆盛一代記によると、1868年(慶応4年、明治元年)8月23日、西郷頼母が登城していた留守宅に薩摩藩士の川島信行が西郷邸奥の部屋まで来ると妻千恵子を筆頭に一族が全員自決を遂げていたそうです。その時長女の細布子には僅かに息があり「その所に参らるゝは、敵か味方か」と尋ね、敵ならば、戦おうとするしぐさをしたようで、川島が「味方だ、味方だ」と叫ぶと細布子はその場に倒れ、懐剣を出し再び咽喉を刺そうとしたようですが遂げることが出来ず解釈を求められ、不敏に思った川島がそれに応じ辞世の短冊を持ち帰ったと伝わる場面が再現されていました。

 

西郷四郎が着用していた柔道着のレプリカです。その左後方には義父の西郷頼母の写真も飾られていました。

 

御成御殿とも言われる御成りの間です。書院造りで藩公などの身分の高い方々を迎えられた部屋だそうです。

 

先程別の部屋で自刃が再現されていましたが、この部屋が実際の自刃の間です。

 

館内を一巡し外に出ます。出口脇にある売店には赤べこなど会津の土産品が沢山並んでいました。

この後駐車場に戻り、今夜宿泊する会津東山温泉に向かいます。

 

会津武家屋敷から5分程で今夜お世話になる会津東山温泉の元湯有馬屋(会津若松市東山町大字湯本居平118)に到着しました。

 

この後、最終となる会津喜多方を楽しむドライブ旅 その3に続きますが、まだ全てを整理することが出来ず休み毎での作業になるため、申し訳ありませんがUP出来るのはもう少し先になると思います。

 

※ 会津喜多方を楽しむドライブ旅 その1を見る

 

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