今回の11月の三連休に合わせ、私も休みを調整して妻と二泊でドライブがてら福島県へ喜多方ラーメンをいただきに出掛けることにしました。喜多方ラーメンの喜多方市を始め、鶴ヶ城や白虎隊などの会津若松市、猪苗代湖や磐梯山などの耶麻郡猪苗代町、桧原湖や裏磐梯が望める耶麻郡北塩原村、猪苗代湖と桧原湖を結ぶ磐梯山ゴールドラインなども走る計画です。ホテルなどは二泊予約していますが、行きも帰りも深夜に走行する少しハードなスケジュールなので11月1日の夜勤明けは帰宅後早々に床に就き、夕方までゆっくりと休み夜間走行に備えることにしました。
今回の三連休の会津地方の天候は全て雨、降水確率もかなり高い予報になっています。しかし、ホテルなども早い時期に予約していたこともあり、雨対策をしっかりとして出掛けることにします。
夕方目覚めた私は勤務の月末処理を忘れていたことを思い出し早めに自宅を出発、途中職場に立寄ることにしました。妻が帰宅後軽く夕食を済ませ、入浴後車に荷物を積込み準備完了、職場に向かい事務処理を済ませ職場を出発、20時過ぎに早島ICから山陽道に流入しました。
早島ICから1時間50分程走り21時50分頃、新名神の宝塚北SAに休憩に立寄りました。
フードコート内を歩いていると柿の葉寿司を販売していたのでサバの柿の葉寿司(480円)とサーモンの柿の葉寿司(500円)を購入し、休憩場所のテーブルでいただくことにします。
サーモン……
サバ…… どちらもとても美味しくいただくことが出来ました。
22時10分、宝塚北SAを出発し高槻JCTで名神道、草津JCTから新名神に乗換えます。
宝塚北SAから1時間半程、23時40分頃鈴鹿PAに到着しました。このPAは上下線集約型の施設になっています。
日本のモータースポーツファンの聖地とも云われ、F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどで有名な鈴鹿サーキットも近くにあるからでしょうか、このPAにはレーシングカーが展示されていました。
レーシングカーもさることながら、このPAに立寄ったのはフードコートの鈴鹿美し國食堂にある伊のいちがお目当てです。
ここで三重ご当地うまいもんセット(1,100円)をいただきます。このセットは伊勢うどん、あさり佃煮ご飯、津餃子とご当地の有名どころの3品がセットになっています。
券売機で食券を購入すると自動的に注文が入るので、番号が呼ばれるまで席で待っていると5分足らずで呼ばれ、受取って席に戻ってきました。しかし餃子の大きさには目を見張るものがあります。
先ずは伊勢うどんから……
上に乗せられている天かす、鰹節、ネギ、生玉子をかま玉風にかき混ぜていただきます。
濃い目の出汁は見た目に反し甘めの感じで麺は柔らかくプヨプヨしていて、正直少し茹で過ぎたかま玉とあまり変わらないような感じです。日頃から腰の強い讃岐うどんを食べつけている私たちには少し物足らない感じがしますが、これが日本一胃に優しいうどんとも云われている伊勢うどんの特徴だそうです。
大きな餃子! 津餃子は直径15cm程もある大きな揚げ餃子で、通常の餃子約3個分に相当するそうです。津餃子は直径15cmの皮を使用した揚げ餃子であること、と津ぎょうざ協会が定義されているようです。
津餃子は1985年(昭和60年)頃に津市の学校給食から生まれたご当地グルメの一つだそうです。津市教委の給食担当者が大きな餃子であれば子どもたちも喜ぶし栄養も豊富で食べ応えもあり、調理員も餃子を一つひとつ包む手間が省け大きな皮に包んで揚げれば作業も効率化出来ると考えられたのが始まりだそうです。
あさり佃煮ご飯……
あさりの佃煮は少し濃いめの味付けでご飯が進みます。
日が変わり11月2日になりました。0時15分鈴鹿PAを出発しました。
新名神で四日市JCTを経由し伊勢湾岸道で名古屋南JCTを通過、豊田JCTから新東名に乗継ます。新東名の浜松いなさJCT~御殿場JCT間は日本で初めて120km/hの走行が可能になった区間ですが、今夜は雨のため80km/hの速度規制が実施されていて、高速走行することは出来ませんでした。
鈴鹿PAから約2時間、3時15分頃駿河湾沼津SAに到着しました。駐車場はほぼ満車状態、普通車枠にまで大貨が停車し、かなり離れたGS近くに停車し雨の中傘をさしてトコトコ歩いてやって来ました。
休憩の傍ら、このSAのフードコートにある駿河庵で桜海老ぶっかけうどん(900円)と贅沢しらすぶっかけうどん(900円)をいただく予定にしていましたが、何と提供時間が共に9時から21時迄でした。24時間営業のフードコートなので大丈夫だと勝手に思い込んでいた私のチョンボです。とても残念ですが今回は見送ることにします。お腹も然程空いていないのが幸いと言えば幸いでした。もしも、空腹状態であれば妻から猛抗議が起こっていたことでしょう……
車に戻り3時35分頃、駿河湾沼津SAを出発します。
新東名から御殿場JCTで東名道に乗換え、4時15分頃海老名JCTから圏央道へ、5時25分頃久慈白岡JCTで圏央道から東北道に乗換えました。
駿河湾沼津SAから2時間15分程、5時50分過ぎに佐野SAに到着しました。
ここで少し早い朝食をいただきます。
お目当てはフードコートにある栃乃木で、栃木県佐野市や宇都宮市に伝わる郷土料理の耳うどんをいただきます。
食券を購入後席で待つこと5分足らず、耳うどんが出来あがりました。
この地域に古くから伝わる伝統料理の耳うどんです。
耳うどんはうどんとは言え少し変わった形状で、うどんとは程遠い形をしています。耳の形に似ていることから耳うどんと云われ、元々は正月にいただく料理だったようです。鬼の耳になぞらえた耳うどんを食べることで無病息災で過ごすことができる厄除けの食べ物として、古くからこの地域に伝わる伝統料理の一つだそうです。
耳を形どったうどんですが、うどんというよりはすいとんのような感じで食感は少しモチモチしています。見た目、出汁は濃いめのようですが、あっさりした出汁で美味しくいただくことが出来ました。
魔除けが出来る郷土料理をいただいたのでこの旅行でもいいことがありそうな気がします。
外には麺ソファというベンチが置かれていました。佐野市は耳うどんもさることながら佐野ラーメンも有名なところです。また機会があれば佐野ラーメンもいただいてみたいと思います。
外に出ると夜が明けていました。出発前にこのSAで燃料補給をしておきます。
自宅近くのGSで給油後の走行距離は763.9km、早島ICからここまで休憩時間を含め10時間弱走っています。
給油を終え、6時35分佐野SAを出発します。
佐野SAを出発後お腹も膨れたこともあってか突然睡魔が襲ってきたため、途中那須高原SAで30分程仮眠休憩をしてスッキリした後、再び東北道を北上しました。
9時35分頃、磐越道の磐梯山SAに立寄りました。行程の再検討をするためです。今日一日は雨ですが、早速今朝いただいた耳うどんの御利益があったのか明日以降は天気が回復する予報に変わっていました。到着後ロードマップをいただこうとインフォメーションに向かいましたがインフォメーションは無く、売店のスタッフの方に伺うとロードマップは置いていないとのことでした。
売店には会津漆器などがありました。 会津塗は山中塗・輪島塗、紀州漆器と共に日本三大漆器の一つに数えられているようです。
施設内で会津塗の箸も販売されていました。妻が会津塗の箸を購入したいと言っていたことを思い出し、車に戻り妻に伝えると見てくると言って私と入れ違いに店舗に向いました。その間に私は行程の見直しをしておきます。
当初の予定では今日は猪苗代湖の遊覧船や野口英世記念館、その後磐梯山ゴールドラインを走り北塩原村で桧原湖の遊覧船に乗船後、喜多方市の坂内食堂で喜多方ラーメンをいただく予定にしていました。
天候が悪いため猪苗代湖、桧原湖の遊覧船は明後日にし今日は喜多方市の坂内食堂で喜多方ラーメンをいただいた後、桧原湖を周回し湖畔にある奥裏磐梯らぁめんやで会津山塩ラーメンをいただき、野口英世記念館を訪れることにしました。
10時5分頃磐梯山SAを出発、会津若松ICで流出し10時半前に坂内食堂に隣接する喜多方市役所の駐車場に到着しました。しかし、坂内食堂は雨にも拘らず長蛇の列、1時間以上は待たなければならないようなので急遽変更し、赤れんがに向かってみることにします。
10時40分頃、喜多方市役所から10分足らずで赤れんが(喜多方市岩月町宮津字惣社原4181)に到着しました。
この喜多方ラーメン店は喜多方市中心部から少し離れたところにあり、広大な敷地に広い駐車場や立派な庭園があり、池には大きな鯉も泳いでいました。平日は11時が開店ですが土日祝日は8時に開店しています。11時という時間の印象が強いのか予想外に客は少なく、ラッキー!
煉瓦造りの蔵の中でいただける喜多方ラーメン店で、テレビ番組等でもよくロケに使用される喜多方でも有名なラーメン店の一つです。
入口脇には沢山のサイン色紙が飾られています。
店内には数組のお客がおられただけでした。
メニューです。スタッフの方にお勧めを伺うと喜多方ラーメンだと言われたので、今回は喜多方ラーメン(900円)をオーダーしました。
自家製の季節野菜の漬物も付いています。
これがまた旨い! 早々に食べつくし無くなってしまいました。
待つこと10分足らず、赤れんがの喜多方ラーメンが出てきました。
喜多方ラーメン特有の平打ち麺、透明感のあるスープはあっさりとした感じですが、コクがあり出汁が効いていて麺との相性もとてもいい感じで旨い!
チャーシューは口の中で蕩けるほどトロトロです。
初めての喜多方ラーメン、とても美味しくいただくことが出来ました。ごちそうさまでした!
この後すぐ近くにある、若菜家に向かいます。
赤れんがから100m足らず。若菜家(喜多方市岩月町宮津字勝耕作3818)に到着しました。見学料は200円です。
若菜家は喜多方三津谷で代々農業を営われているそうで4棟の煉瓦蔵があります。明治時代に三津谷で登窯が創業された際その窯で使用する薪を若菜家で提供したことで、その謝礼として煉瓦を譲り受け現在の煉瓦蔵が建造されたそうです。
立派な母屋です。以前は茅葺屋根だったようですが、重ね葺きをされたそうです。茅葺屋根は通気性も良く、遮熱、断熱、吸音性にも優れている屋根で、昔の生活は囲炉裏などで火を焚いていたこともあり、その煙により防腐、防菌、防虫効果を果たしていたようです。かくゆう私も茅葺屋根の家で生まれ幼少を過ごしていたことを幼心に覚えています。
若菜家は代々農業を営なんでおられこの母屋は約200年、現在の当主で10代目になるそうです。その10代目当主が案内してくださいました。
立ち並ぶ煉瓦蔵群は経産省の近代化産業遺産や登録有形文化財にも指定されているそうです。
母屋の正面にある味噌蔵は1921年(大正10年)の建造です。右側の扉の中は昔の主要燃料であった炭の倉庫に使用されていたそうですが現在は資材庫として使用され、左側の扉の中は現在も自家製味噌の味噌蔵として使用されているそうです。
母屋の左側にある農作業蔵は1910年(明治43年)の建造です。当時は主に藁加工や脱穀、精米、穀物貯蔵庫などに使用されていたようですが、現在は資料館として利用されているそうです。
その農作業蔵二階にある資料館です。52畳の畳敷で一時期は観光客の食事スペースに使用されていたこともあったそうですが、現在では沢山の資料などが展示されているようです。
昔イモ洗いに使用していた桶と洗い棒です。洗い棒は自然の松の枝で作られたものだそうで、先端が幾重にも分岐しているものはとても珍しいそうです。
地中から出てきた爆弾。この爆弾には吊り下げフックがあることから戦闘機から落とされたものだそうです。
入口脇にある三階蔵は1916年(大正5年)、その隣にある蔵座敷は1917年(大正6年)に建造されたそうです。
三階蔵は煉瓦を42,500個も使用していて、冠婚葬祭や寝具、長持ち、食器類、家財保管蔵として使用、蔵座敷は来客の宿、隠居、会議、茶室として使用されていたようです。
蔵座敷には大正昭和の時代の物が沢山展示されていました。
正面の鏡はかなりの年代物だそうですが、歪みもなく現在の鏡にも引けを取らない程高い加工技術により作られています。右奥には茶室時に使用する囲炉裏が見えています。
丁度見学を終えた頃、二人の方がブドウの購入に来られ当主の方はその方たちと共に農園に向かわれました。母屋の前では奥様が新米の販売をされていたので米ともち米を購入しました。
立派な建物や貴重な資料を拝見させていただき、ありがとうございました。
時計を見ると12時丁度、この後国道459号線で桧原湖に向かいます。
若菜家から30分余り、12時30分過ぎ桧原湖近くの国道459号線沿いにある道の駅裏磐梯(耶麻郡北塩原村檜原南黄連沢山1157)に立寄ってみることにしました。
駅舎に向かいます。
雨のため少し霞んでいますが駐車場からは桧原湖が望めました。
駅舎の展望台に上がってみました。近くの木々はいい感じに紅葉しています。
展望台から見た桧原湖、天気がよければ素晴らしい展望が楽しめるのでしょうが……
12時15分頃、車に戻り桧原湖周遊に向かいます。
道の駅裏磐梯から15分程で桧原湖北西部端付近、旧米沢街道桧原宿跡にある大山紙神社こと山神社に到着しました。
桧原宿跡は、福島県麻耶北塩原村の桧原湖北岸に位置し、1888年(明治21年)の磐梯山噴火に伴い形成された桧原湖によって水没した旧宿場町です。
鳥居の向きや木々の跡からこの先の方向に桧原宿があったのではないかと思います。
米沢街道は江戸時代には会津藩内の本街道五筋の一つとして会津若松から米沢までの約56kmを結び、米沢と会津を繋ぐ主要街道としての役割を担い、桧原宿はその要所として人や物資の流通を支えていたようです。また桧原宿は近世では金鉱山の発掘で繁栄を極めていたようで、近くの大塩宿は塩泉を使用した山塩作りが盛んだったようです。
湖岸に降りてきました。当時から鎮座していた山神社の本殿と桧原湖に水没した鳥居や木々の跡が残されています。
桧原湖周辺の紅葉は真っ盛りです。天候がよければ素晴らしい紅葉を楽しむことが出来たのでしょうが……
今日は桧原湖の水位が低いためか、この鳥居までこれましたが、水位が高いと鳥居が水面に立つ素晴らしい景色を楽しむことが出来るのですが……
お参りを済ませた後車に戻り先に進みます。
旧米沢街道桧原宿跡から5分余り、13時15分過ぎに奥裏磐梯らぁめんや(耶麻郡北塩原村大字桧原字苧畑沢1034-19)に到着しました。駐車場はほぼ満車状態ですが丁度1台出ていかれたので運よく待たずに駐車することが出来ました。
この建物は桧原地区検断を務めていた家の家屋を移転し食事処として利用されているようです。
入口の様子です。この建物内には歴史資料館も併設されているようです。
入店時入口付近でも数人待たれていたため撮影することが出来ず、食べ終えた後撮影しましたが、まだ14時過ぎだというのにスープが無くなったため暖簾を外され閉店準備に掛かられていました。既に暖簾を外された後でしたが、スタッフの方が態々暖簾を掛けてくださいました。ありがとうございます。
店内には会津山塩承認店の立て札がありました。
ここのラーメンは会津山塩という温泉を煮詰めて作った塩を使ったスープです。
店内には會津米澤街道檜原歴史館が併設されています。スタッフの方に待ち時間を伺うと、40~50分程待たなければならないそうなので、歴史資料館を見学することにしました。
入館料は100円です。入口手前からの様子です。館内では撮影は出来ないようなので写真はありません。
桧原湖に水没した桧原宿跡のジオラマや、湖底から出土した物なども展示されていたり、当時の人々の暮らしの様子が伺える貴重な写真や資料、生活を知ることのできる道具類の展示品、旧米沢街道の概要や歴史、木地師、鉱山など、裏磐梯の昔の様子などを知ることが出来ました。
待つこと40分余り、やっと順番が回ってきたようで席に案内されました。
私は会津山塩ラーメン(900円)、チャーシュー好きの妻は会津山塩チャーシューメン(1,200円)をオーダーしました。
待つこと10分余り、私がオーダーした会津山塩ラーメンが出てきました。チャーシューメンでは無いのに大きなチャーシューが5枚も乗っています。
妻がオーダーした会津山塩チャーシューメンも出てきました。チャーシューの数が半端ありません。
温泉を煮詰めて作られた会津山塩のスープを使ったラーメンはとてもまろやか、麺は中太の縮れ麺でモチモチでスープとのコラボもよく旨い!
会津山塩のスープの浸み込んだチャーシューはトロトロでこれまた旨い!
透明度の高いスープは鶏ガラベースのようで会津山塩とのマッチングもよく、まろやかで角を感じず、甘ささえ感じられる優しいスープです。とても美味しいスープなので全て飲み干してしまいました。ごちそうさまでした!
この席からは目の前に桧原湖が広がり、雄大な景色を楽しみながら美味しいラーメンをいただけます。
奥には囲炉裏も置かれていました。
駐車場脇には米沢街道と桧原宿についての簡単な説明パネルが設置されていました。
駐車場の前では道路を挟んで桧原湖の絶景が楽しめます。
14時15分、出発します。
正面に磐梯山、周囲は素晴らしい紅葉ですが生憎の天候です……
奥裏磐梯らぁめんやから1時間足らず、15時20分頃、野口英世記念館(耶麻郡猪苗代町三ツ和前田81)に到着しました。
この記念館は旧千円札でおなじみの世界的医学者、野口英世の生涯と業績などや、ゆかりの品々なども展示されていて野口英世の足跡を辿ることが出来るようです。
国道脇の正面駐車場は満車だったため、奥にある駐車場に車を置きやって来ました。
チケットを購入時、スタッフの方から時間の関係で先に感染症ミュージアムを見学してくださいと案内されたのでそちらに移動します。
野口英世記念館の裏側にある感染症ミュージアムにやって来ました。
この施設は、過去から現在まで人々が築きあげてきた感染症への知識、経験、さらに未来に向けた歩み、それらを伝える場として設置されたそうです。
感染症とは何か? 感染症の原因である寄生虫や細菌、ウイルスの大きさの違いや姿、感染症発症のメカニズムや治療薬の開発などの基礎的な知識を学ぶことが出来ました。
感染症の治療、1928年(昭和3年)にアレクサンダー・フレミングが青カビからペニシリンを発見されたことにより感染症の治療に革命が起き、その後もカビなどの微生物から次々に抗菌薬が発見され実用化、抗生物質と呼ばれとても身近な存在となり今ではよく耳にする言葉で利用する機会も多くなってきました。
感染症終息の切り札ともいえるワクチンはエドワード・ジェンナーによる牛痘接種法以来、感染症予防に最も有効な手段とされ、20世紀には天然痘を根絶に導いたワクチンです。その開発のあゆみや現在の到達点などが紹介されていました。
二階にあるシアタールームでビデオを見た後、野口英世記念館に戻ります。感染症ミュージアムでは、感染症についての今まで知り得なかったことを沢山知ることが出来ました。
野口英世記念館に戻って来ました。玄関脇には野口英世のブロンズ像が置かれています。
新旧の1,000円札です。左側には今年7月3日に発行された北里柴三郎の肖像画が印刷されたF千円券、中央には20年間流通していた野口英世の肖像画が印刷された2号券のE千円券、記番号A000002A、一番右側には日本銀行からの感謝状と最後に印刷された日本銀行券E千円券が展示されていました。
ちなみに、一枚目の千円券、記番号A000001Aは日本銀行貨幣博物館にあるそうです。
野口英世の医術開業後期試験及第之証(医師免許)です。
毒蛇の乾燥標本や薬瓶です。自ら蛇の毒を採取し標本を作られていたようです。
野口英世の磁器質の研究ノートです。英語で記されていますがとても綺麗な書体でした。
ロックフェラー医学研究所で使用されていた顕微鏡です。
野口英世自筆の絵画……
野口英世自筆の書……
絵画や書、チェス、将棋など多才な趣味の持ち主だったようです。
母シカが野口英世に宛てた自筆の手紙です。「はやくきてくだされ はやくきてくだされ いしよのたのみでありまする」と、一目会いたい気持ちを綴られていました。
手紙を受取った後、1915年(大正4年)に15年振りに帰国し母と再会されたそうです。
野口英世は中南米やアフリカで流行していた黄熱病撲滅のため現地に赴き研究をされていましたが、1928年(昭和3年)自ら研究していた黄熱病に掛かりガーナ共和国の首都アクラで51歳の生涯を閉じられたそうです。
野口英世に贈られた勲章です。生涯で15ヶ国から学位や勲章を授けられたそうです。
野口英世の研究室が再現されていて、野口英世のロボットが挨拶をしたり身振り手振りを交えて質問にも答えてくれます。
左のカメラは帰国後故郷の風景などを撮影されたコダック社製のコンパクトカメラで、右の写真は1914年(大正3年)に撮影されたガラス乾板の野口英世のカラー写真です。大正時代にカラー写真…… 私には計り知れないものを感じましたが、当時の最先端とも言うべき貴重な写真です。
体験! バクテリウムのコーナーです。通常目に見えない細菌の世界をパネルや映像を使って紹介されていました。
野口英世をモチーフにした記念切手やコインです。生涯や体験コーナーでは野口英世が幼少期を過ごされた猪苗代、会津若松時代から黄熱病研究に力を注がれた中南米、アフリカの時代までの生涯が紹介されていました。
江戸時代後期の1823年(文政6年)に建てられた野口英世の生家です。この生家は2019年(平成31年)に国の登録有形文化財に認定されたそうです。
1876年(明治9年)に福島県三ツ和村三城潟(現猪苗代町)のこの地に誕生、1893年(明治26年)に会津若松市の会陽医院に書生として入門されるまで住まれていたそうです。
生家の庭には、右側には野口英世生誕地碑、この碑の下には野口英世の遺髪が納められているそうです。左側には母校に贈られた文字「忍耐」と猪苗代町長に贈られた英語とフランス語の文字を彫った碑がありました。
この二つの記念碑は野口英世が亡くなられた翌年の1929年(昭和4年)に建てられたそうです。
野口英世が1歳半の時に左手の指が全部くっ付いてしまう程の大火傷した囲炉裏です。
1896年(明治29年)9月初旬に19歳で上京される時、床柱に全身の力を込めて、小刀で決意文を刻んでおられる様子がその床柱の前に再現されていました。
その決意文です。「志を得ざれば 再び此地を踏まず」と彫られています。
この後車に戻り、国道49号線を走り今夜宿泊する会津若松駅前にある会津ワシントンホテルに向かいます。