横溝正史疎開宅と矢掛宿

昨夜早く休み過ぎたためか、朝早く目覚めると妻が布団の中でスマホを見ていました。「起きてるの?」と聞くと「井原市内にミシュランガイドに載っているラーメン店があるので食べに行ってみたい」と言ってきました。井原市でラーメン? 私はピンと来なくて、とりあえずどんなラーメンか楽しみにドライブがてら出かけてみる事にしました。せっかくなので倉敷市真備町にある横溝正史疎開宅と旧山陽道の矢掛宿へも立ち寄ってみる事にしました。ラーメン店は妻が調べてくれた電話番号で目的地をセット、平櫛田中の美術館の傍なので食後立ち寄ってみたいと思います。途中ルートに横溝正史疎開宅を追加し出発しました。

倉敷市街地を抜け横溝正史疎開宅(倉敷市真備町岡田)に到着しました。しかしすごい人の数です。今日は「金田一耕助 春の誕生会 in 桜」というイベントが行われているようです。岡山県警音楽隊の演奏や子ども神楽などもあるようなので会場に向かいます。受付で検温とアルコール消毒をして会場に入りましたが、あまりに人が多いので疎開宅のみ見させていただく事にしました。久しぶりに音楽隊の演奏も聞いてみたがったのですが、ちょっと残念です。

前回一人で訪れた時は生憎の休館日だったので、ずっと気になっていました。この建物は推理小説作家の横溝正史が太平洋戦争の末期に疎開し、家族と共に暮らしていた家で「横溝正史疎開宅」として当時のまま保存され一般公開もされています。

玄関には「横溝」と表札が掛かっています。

中に入ると障子に金田一耕助が…

ここで執筆された小説の舞台が岡山県地図の上に張られていました。

座敷からは庭が眺められます。横溝正史もこの庭を眺めながら「本陣殺人事件」や「八つ墓村」などの構想を考えたのでしょうか…

見学を終え外に出てきました。この後、井原市へ妻が見つけたラーメンを食べに向かいます。

「中華そば専門店 笠北」に到着しました。雨の中数人の方々が並ばれています。すぐ南側にある田中美術館は残念ながら工事中で休館しているようで、次回の楽しみにとっておきます。

どんなラーメンなのか楽しみです。待つ事10分余りで入店出来ました。

メニューは並盛と大盛だけのようで、その下に「ミシュランガイド 京都・大阪+岡山2021」掲載店のステッカーが貼ってあります。

出て来ました「笠北中華そば 大盛」です。長くカットされた青ネギ、薄くカットされた親鶏のチャーシュー、少し大きめのシナチク、ストレートの細麺と笠岡ラーメンのようですが、綺麗に並べられた麺やトッピングに上品さを感じます。さすがミシュランガイドに掲載されているだけのことはあります。麺は少し硬めの食感、スープは澄んでいて鶏出汁が僅かに感じられますが笠岡ラーメンのような醤油感はあまり感じられませんでした。食べた感じは笠岡の「中華そば 坂本」の味を思い起こしましたが、そのラーメンを少し上品にしたような感じで、妻はあっさりしていて美味しいと食べていましたが私は少し物足らなさのようなものを感じました。

会計はカウンターにある「勝手に精算機」で精算するセルフスタイル、笠岡の坂本と同じシステムでした。味も近いような気もするので、やはり坂本と関係あるのでしょうか? また坂本に立寄った時に聞いてみたいと思います。

しかし・・・

客と店主と些細なトラブルで、店主の対応に少し大人げない感じを受け、せっかくのラーメンが美味しくいただけませんでした。ミシュランガイド掲載店なのに、接客ももう少し考えて対応出来れば良いのではないかと残念に思いました。

気を取り直し矢掛宿に向かいます。

小田郡矢掛町の「やけげ町家交流館」へ到着しました。

駐車場から交流館に向かいます。

交流館には土産物などが沢山並べられていて、食事も出来るようでした。交流館から旧山陽道に出て来ました。

西に少し進むと「矢掛本陣 石井家」に到着です。石井家は江戸時代に矢掛宿の本陣職を務めたそうで、建物は国の重要文化財に指定されています。

入館料は500円ですが、JAF会員割引で400で入館出来ました。

最初に矢掛宿本陣展示蔵を見学します。

石井家は矢掛の庄屋だったようですが、1635年(寛永12年)徳川家3代将軍家光により参勤交代が制度化された時に本陣職を命じられたそうです。その後酒造業を手掛け、現在でも立派な酒蔵が残されていて展示室に利用されていました。

大きな酒の搾り機が展示されています。酒造業は徳川家5代将軍綱吉の時代の元禄年間(1688年~1704年)頃から営み始められたようです。

宿泊された藩主の夕食だそうです。予想以上に質素な食事なのには驚きました。

津和野、長門、肥後、肥前各藩の宿札です。各藩の宿泊時、宿場の入口と本陣前に掲げられていたようです。この宿札(木札)は、石井家に151枚が保存されていて、木札の他に紙製の宿札も272枚あるそうです。

中門を潜りさらに進みます。

中門の先には裏門の長屋門があり、正式名を「裏門座敷長屋」というそうです。1706年(宝永3年)に備中森家の西江原陣屋から移築された由緒あるものだそうです。

庭にはスズランの花が咲いていました。もうスズランの咲く季節がやってきたようです。

 

蔵の脇を抜け母屋に戻ります。

膳所(台所)も広いスペースが確保されています。

本陣入口まで戻り店の間に上がると壁には鑓掛けがありました。

奥に進むと、各藩の大名や幕府の役人などが利用する門や玄関がありました。右側が御成門、左側が玄関になります。

玄関側です。1853年(嘉永6年)には、天璋院篤姫が徳川家へ輿入れされる時、神辺本陣に泊まった翌日の9月17日に矢掛本陣に到着され宿泊された事、1866年(慶応2年)の長州征伐の時には矢掛以東の諸大名も宿泊された事など、その時の様子が石井家の記録に残っているそうです。

こちらにも宿札が展示されていました。右から伊達遠江守宿(宇和島藩)、松平肥前守休(佐賀藩)、裏面も展示されていて、宿泊の様子や工程などが書かれているようです。4枚目は御勅使 梅渓中将様小休、新見加賀守休(長崎奉行)とありました。宿泊や昼食、休憩など利用時に掲げられていたようです。本来は利用する各大名が持参されるようですが、御勅使 梅渓中将だけは「様」と書かれている事から宿側で用意されたのではないかと言われています。

次席の間の奥にある上段の間は一段高くなっていて、大名などが宿泊や休憩に使用されていたようです。上段の間の欄間は桃山時代の物だそうです。

この座敷は、1831年天保2年)11月に改築を開始し、翌1832(天保3)年3月に棟上げ、5月には萩藩が宿泊した記録がある事から、改築は大急ぎで行われたようです。一見質素な造りに見えますが、よく見ると当時の最高品質の材料が使用され、造りもかなり拘っているように思えました。

宿泊された大名もこの中庭の眺めを楽しまれたのでしょうね。

本陣の中をしっかりと見学させていただいたので表に出て来ました。外から見た御成門です。扉は欅の一枚板が使用されていて、利用時には宿札が掲げられたそうです。この後脇本陣に向かいます。

山陽道を東に進みます。

路地も綺麗に整備されていました。

本陣から東に400m 程進むと脇本陣の髙草家に到着しました。この脇本陣も立派な建物で、本陣の石井家に次ぐ規模を誇っているそうです。

脇本陣の髙草家は、金融業で財をなし庭瀬藩の掛屋(両替商)や小田郡の大庄屋を務めた旧家のようで、主屋や蔵座敷、蔵などが国の重要文化財に指定されていうようです。入館料は300円のようですが時間もあまり無いので、外観だけ見学させていただきたいと思います。

表門の薬医門です。矢掛町矢掛堀東にあった矢掛陣屋(三成陣屋)の門を1873年明治6年)移築されたそうです。

当時の姿を色濃く残した本陣と脇本陣、そのどちらもが国の重要文化財の指定を受けているというのは珍しく全国でも矢掛宿だけだそうです。

白壁、なまこ壁、格子窓の美しい町家、その中に本陣や脇本陣が建ち並び今にでも大名行列が通っても不思議で無いような風情や情緒を感じる宿場町でした。この後車に戻り帰路に就きます。

今日は妻のちょっとした思い付きで出かける事になりましたが、ずっと気になっていた「横溝正史疎開宅」や、すぐ傍を度々走っているものの、なかなか立寄る事の出来なかった「矢掛宿」も、共にしっと楽しむ事が出来ました。ミシュランガイドに載っているラーメン店では、美味しかっただけに残念ですが少し感じ悪い思いもしました。しかしこれもまた一つの経験だと思います。後で友人に聞いた話によると、ミシュランガイドの掲載基準は料理だけだそうで、接客態度は評価外だとか… それを聞き少し納得した気になりました。

 

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