今日は昼からが雨の予報です。雨雲レーダーを見ても雨雲は遙か西方、午前中ならば大丈夫と思い倉敷市下津井にある下津井城址に久しぶりのツーリングがてら出かけてみることにしました。
下津井城は1590年代(文禄年間)頃、豊臣政権の五大老の一人宇喜多秀家が築城した連郭式《れんかくしき》平山城です。現在は石垣や土塁しか残っていませんが、岡山県の史跡に指定されています。
自宅から1時間弱で到着しました。
駐車場脇に案内板がありました。ここは「瀬戸大橋架橋記念公園」で、下津井城址もその公園内にあるようです。
駐車場から遊歩道を歩いて下津井城址を目指します。
遊歩道の階段を上りきると、馬場跡広場に出ました。本丸跡広場まであと100mのようです。
馬場跡広場から見る西の丸の石垣です。
左側の階段を上ってきました。
西の丸跡広場に到着しました。駐車場から歩くこと5分程でした。
この場所からは瀬戸内海を挟んだ香川県の宇多津町や丸亀市の街並が展望できました。その遠方には竜王山や大山山《だいせんざん》など1,000mクラスの山々が連なる讃岐山脈も見えます。
ちなみに、讃岐山脈とは香川県と徳島県の県境に位置する山脈の香川県側の呼称で、徳島県側では一般的に阿讃山脈と呼ばれているそうです。
カメラをワイド側に引いてみると、左側に下津井瀬戸大橋、その下津井瀬戸大橋の南端が櫃石島に架かり、その奥に櫃石島橋や岩黒島橋が見えます。櫃石島の右に半島のように見えているのは本島という島です。昔は下津井から本島を経由し丸亀に渡るフェリーボートが就航していましたが、瀬戸大橋架橋後廃航になってしまいました。
ちなみに、本島は塩飽諸島の中心の島で、塩飽勤番所跡や塩飽水軍の本拠地と言われている「笠島地区」(島ではなく地名です。)などもあり、今でも古い町並みや細く入り組んだ昔ながらの路地なども残っています。塩飽勤番所跡は現在資料館として一般開放されていて、織田信長や徳川家康などの朱印状なども残されています。
中世の頃瀬戸内海には二つの大きな水軍がありました。一つは日本最大の海賊と言われた「村上水軍」と、この「塩飽水軍」です。勇猛な戦闘水軍として名を轟かせた「村上水軍」に対し「塩飽水軍」は操船技術や造船技術で知られ、江戸幕府の海軍船の咸臨丸は、乗員の約7割が塩飽諸島の出身者だったそうです。また高度な造船技術を生かして「塩飽大工」と言われる宮大工として、吉備津神社本殿や拝殿、備中国分寺の五重塔、善通寺の五重塔などの建造にも携わっていたそうです。
櫃石島の先に櫃石島橋と岩黒島橋の斜張橋、その先に番の州工場地帯(坂出市)の煙突なども見えます。
カメラをワイド側に引いてみると、櫃石島の左側に下津井瀬戸大橋、手前には田之浦港が見えます。この櫃石島は香川県分で、下津井瀬戸大橋の中間地点が岡山県と香川県の県境になり、香川県が岡山県の目の前まで迫ってきているのが解ります。
撮影していると突然雨が降り始めました。雨雲レーダーを見てみると突然湧いたのか濃い雨雲が近付いて来ています。撮影をやめ急いで本丸跡を目指します。
西の丸から本丸側に移動します。ここは土塁の上部ではないかと思います。
本丸の石垣です。
その石垣に近付いて撮影しました。
本丸跡までもう少しです。
この階段を上りきると本丸跡のようです。
西の丸跡広場から2分程で本丸跡広場に到着しました。
本丸跡広場の北側、少し小高い丘の上に「下津井城天守跡」の案内柱がありました。この下津井城には天守が存在していたようです。
このまま東に進めば三の丸跡や中の丸跡に行けますが、強い雨雲も近づいているようなので今回はここで諦め、小雨のうちに引き返すことにします。
駐車場手前から見た鷲羽山ハイランドです。小雨の中、ジェットコースターの音やお客さんの絶叫がここまで聞こえてきす。城の北側の丘陵地に侍屋敷があったと言われているので、この辺りなのかも知れません。
駐車場から見た鷲羽山《わしゅうざん》(正面の山)と下津井瀬戸大橋北端です。
鷲羽山は標高133mの鍾秀峰《しょうしゅうほう》が山頂で、鷲が羽を広げた様に見えることから「鷲羽山」と名付けられたそうです。展望台からは波静かな瀬戸内海の多島美と雄大な瀬戸大橋を眺めることができ、特に夕暮れ時の美しさは最高で「日本の夕陽百選」にも選定されています。
ちなみに、少し前の話になりますが、岡山県出身の鷲羽山《わしゅうやま》という力士がいました。正攻法の相撲で多彩な技を繰り出し、身長175cm体重112kgと小柄な力士ながら「ちびっ子ギャング」とも呼ばれ沢山の相撲ファーンから愛され長く活躍されていました。鷲羽山は鷲羽山のすぐ近くの出身だそうで、兄である常の山と同じ出羽海部屋に所属し最高位は東関脇まで昇進、1985年に現役を引退されました。その後年寄境川親方を襲名、出羽海部屋付きの親方として後進の指導にあたり、1996年からは10代目出羽海親方を襲名し出羽海部屋を継承されました。2002年には日本相撲協会理事にも就任し2014年に定年退職されています。
少し古い話になりますが、鷲羽山がらみでもう一つ。新大阪や京都、大阪から東海道線、山陽線と在来線を経由し、岡山からは宇野線に乗り入れ終点宇野へ、そこから先は宇高連絡船へバトンタッチし乗客を四国へ輸送するという重要路線の花形として、1日最大11往復が運行されていた「鷲羽」と言う急行列車が走っていました。この列車は私が幼い頃に大阪へ行く時に利用していたことが思い出されます。
その急行「鷲羽」も1972年(昭和47年)に新幹線が新大阪から岡山まで西伸してきた時に、岡山~宇野間を快速列車にその座を譲り、新大阪~宇野間の夜行便の1便だけになってしまいました。さらに瀬戸大橋線が開通する1988年(昭和63年)の8年前、1980年(昭和55年)には夜行便も廃止され、運行開始から21年の歴史にピリオドを打つことになりました。 現在では急行「鷲羽」の血筋はマリンライナーに受け継がれ、海を渡る快速列車として多くの方々に愛されています。
今回はうんちくが少し長すぎました。本降りになる前に急いで帰ることにします。