桃太郎伝説の鬼ヶ島こと「鬼ノ城≪きのじょう≫」(岡山県総社市)に散策に行ってきました。右上に「鬼ノ城」の西門が見えます。温羅≪うら≫の妻阿曽姫≪あそひめ≫の郷と言われている総社市阿曽地区からの展望で中央の白い建物は阿曽小学校です。この鬼ノ城西門は周辺の一般道や岡山道の岡山総社IC付近からも走行中に見ることが出来ます。
鬼ノ城手前約500m付近の登山道路脇に「鬼の窯」という大きな鉄の窯がありました。この窯は江戸時代に近くの湯窯谷という場所から出土したそうで、口径185cm深さが105cmの大きな窯です。その昔鬼ノ城に住んでいた温羅≪うら≫と呼ばれていた鬼神が生贄≪いけにえ≫を茹≪ゆ≫でたという言い伝えがあるそうです。
が・・・。現在では近くにあった山岳寺院の新山寺≪にいやまじ≫の湯屋に使用した湯釜ではないかとの考え方が有力なようです。
鬼ノ城に到着です。以前訪れた時は平日だったので駐車場はガラガラ状態でしたがさすがに土曜日、沢山の方が訪れているのか車も多いようです。
後で友人から聞いた話によると、最近全国放送のTV番組で取ら上げられたそうで、そのせいで多かったのかも知れません。
まずは「鬼城山≪きのじょうざん≫ビジターセンター」で予備知識を仕入れます。
鬼ノ城は桃太郎伝説に登場する「温羅≪うら≫」の住居として言い伝えられてきました。築城時期は7世紀後半頃の古代山城だと考えられています。
鬼ノ城を含む古代山城は663年(天智2年)に現在の韓国の中西部であった「白村江の戦い≪はくそんこうのたたかい≫」で敗れた当時の大和朝廷と百済≪くだら≫の連合軍が唐や新羅≪しらぎ≫からの侵略を恐れ国内防衛の為664年頃から九州北部地方を中心に畿内までの瀬戸内海の要所な場所に築城したのではないかと考えられます。鬼ノ城もこの年代頃に築城された「神籠石式山城≪こうごいししきやまじろ≫」の一つではないかと考えられています。
現在鬼ノ城は日本百名城の69番に選定され、城跡は国の史跡にも指定されているそうです。当時の岡山県南部から香川県北部の地図です。現在の海岸線の様子とは全く違います。特に岡山県側の海岸線はかなり奥まっていて、児島≪こじま≫はまだ瀬戸内海に浮かぶ島だったようです。現在この児島は本州と陸続きとなっていてJR瀬戸大橋線の本州側最後の児島駅がありこの駅より先は現在でも瀬戸内海が広がっています。列車は瀬戸大橋を渡り四国側の坂出駅や宇多津駅に向かいます。ちなみに児島駅でJR西日本の乗務員とJR四国の乗務員が交代しています。
本州と児島の間にある海は「吉備の穴海」(この地図には「吉備穴海」と表記されています)と呼ばれていました。この「吉備の穴海」に横長の島がありますがこの島が早島≪はやしま≫です。現在では早島ICがあり瀬戸中央自動車道の岡山側の起点であると共に山陽道早島支線と南北に繋がり山陽道や岡山道に、東西には国道2号線が交差する交通の要所となっていますが当時は「吉備の穴海」に浮かぶ島の一つだったようです。
ちなみに瀬戸中央道を走行していると「早島IC」「水島IC」「児島IC」と島の付くICが続き、周辺にも連島、福島、羽島、箕島などやはり島の付く地名が数多くありますが全て瀬戸内海に浮かぶ島であった名残です。さらにいえば現在の岡山駅周辺は弥生時代~古墳時代、倉敷駅周辺に至っては室町時代(1,500年頃)まではまだ瀬戸内海の一部で陸地化されていなかったようです。
鬼ノ城の地図がありました。鬼城山(標高397m)の山頂付近を中心に、8~9合目付近を城壁で2.8kmに渡り鉢巻状に取囲んでいて、約9割が「版築土塁≪はんちくどるい≫」工法や自然の地形を利用した城壁で残りの約1割に石垣が築かれているそうです。今回はこの城壁跡を一周します。山頂から8~9合目付近までの傾斜はわりとなだらかですが8~9合目から下は傾斜が非常に急な地形となっているそうです。
この城壁には城門が4カ所あります。壮大堅固な西門と南門、やや小ぶりの東門と北門がありその中の西門やその脇にある角楼などが復元されています。
西門模型その1です。復元時には発掘調査の資料を基に平面的な面では正確な判断ができたそうですが、二階建てか三階建てなのか屋根があったのか無かったのかど立体的には正確な情報が乏しく復元には大変な苦労があったことが推測されます。ちなみに、発掘調査では西門付近からは瓦の出土はなかったそうです。
西門模型その2です。三階部の作りが異なります。(城外側から)
西門模型その2です。(城内側から)
現地に復元されているのは西門模型その1のようですが、多くの資料や多くの方々の意見を取りまとめ試行錯誤しながら色々と検証した結果だと思います。
案内板にあった地図を頼りに鬼城山ビジターセンターからスタートします。
写真では見えませんが右後ろに鬼城山ビジターセンターがあり左の階段を下れば駐車場です。
地図1の学習広場から見た西門と角楼です。
西門のアップです。
角楼のアップです。
地図1の学習広場から地図21の角楼脇を抜けて進みます。
角楼は石積部だけで高さが3mもあります。角楼とは城壁から張り出したもので敵からの攻撃に備え重要な防衛施設であったと考えられています。
地図2の西門入口です。ここから城壁沿いに反時計回りに散策していきます。発掘調査時の西門の様子です。
西門の二階部ですが立ち入ることは出来ません。
西門と外側の土塀と石垣です。城壁の外側に敷石が敷かれています。
地図3の場所です。城壁内側にも敷石が敷かれています。これらの敷石は雨水などで土が流出し城壁が崩れるのを防ぐ為の対策だそうで他の古代山城にはこのような例が無く鬼ノ城にだけに見られる珍しい物だそうです。
城壁の上部?を歩きます。
城壁内に溜まった雨水排出のための水門が6ヵ所ある内の第2水門です。地図6の場所です。
上の写真の右上の付近、右奥側から撮影しました。排水溝が石積の上部にあります。
しばらく進んで地図7の南門に到着しました。
城壁の内側に敷石が並んでいます。
南門を城内から城外の方向(南向き)です。
南門を東方向から撮影しました。右側から歩いて来ました。
地図⑨の「高石垣」付近です。
奥側から歩いてきました。
「内側列石」という案内板が進行方向の左側にあったので、やはり城壁の上を歩いていたのだと思います。(写真は振り返って撮影しているため案内板が右側に見え説明と左右が反対になります)
今回は東門ルートではなく分岐部を左方向に進み東門をワープしました。写真は以前訪れた際の東門の写真です。
「高石垣」の様子です。
地図15の「屏風折れの石垣」の展望です。今でこそ鬼ノ城のPR写真には西門の写真が多用されていますが、西門が復元されるまではこの「屏風折れの石垣」が鬼ノ城を代表する写真だったように思います。
前回訪れた際に撮影した「屏風折れの石垣」です。
この写真も前回訪れた際に撮影したもので「屏風折れの石垣」から「高石垣」までのワイド写真です。
登り坂が少し辛い・・・。
間もなく「屏風折れの石垣」に到着します。
無事到着しました。案内板の中央の石碑には「岡山県15景地」と書かれていました。石碑の裏には昭和12年4月建之≪こんりゅう≫と刻まれていました。
この「岡山県15景地」とは1935年(昭和10年)に山陽新報社(現在の山陽新聞社)が岡山県内の景勝地を投票で決定しようと実施して選ばれた景勝地だそうで、他にも吉備の中山(岡山市北区)や円通寺(倉敷市)、瑜伽山(倉敷市)、王子が岳(玉野市)などがあるそうです。
12月だというのに余りの暑さに(坂道を頑張って登ったので)上着を脱いでしばらく日陰で休憩します。
前回訪問した際の写真ですが「屏風折れの石垣」の先端方向を望みます。
パイプタイムを終え出発しました。しばらく進むと「温羅遺跡」の石碑がありました。この石碑の裏にも昭和12年4月建之と刻まれていました。
しばらく上り坂を進むと「土塁(長さ49m)」という案内板がありました。
地図16の北門に到着しました。
北門城外から城内方向の写真です。
城内側から城外(北)方向の様子です。門の中央に排水溝を見ることが出来ます。
北門西側の石積です。
北門付近の 発掘調査時の写真です。
地図17の基礎建物跡です。
城内の中央部付近に7棟の建物跡が発掘されているそうです。
地図19の鬼城山(標高397m)の山頂です。東屋がありました。
山頂からほんの少し降ると西門です。
右手に地図の21角楼があります。この角楼の上部は約100畳の広さがあるそうです。角楼から西門を望みます。
久しぶりに鬼ノ城を散策しました。約3kmの山道を登ったり降ったりと約2時間と少し(途中かなり休憩の時間もありましたが・・・・)12月だというのにさすがに山道の散策は一汗かきました。でもとてもいい汗で多少なりとも日頃の運動不足の解消に繋がったのではないかと勝手に理解しています。
今回時間が十分あったので、鬼城山ビジターセンターでゆっくりとビデオを見ることが出来、資料も時間をかけしっかりと見させていただき沢山の知識を得ることが出来ました。
地元に残る貴重な歴史遺産を今後とも後世に大切に引き継いでいきたいものです。